会津に伝わる戊辰戦争のタブー
戊辰戦争では新政府軍と東北の藩の間で戦争が起きています。1868年5月6日、奥羽越列藩同盟が成立します。
会津藩はもともと新選組を使って攘夷志士の討伐を行っており、新政府軍はそれを恨みに思って会津藩を壊滅させたいと企んでいました。
会津藩は旧幕府派についたため、新政府軍は会津を朝敵と定めます。そして仙台藩に会津藩を追討するよう命じますが、仙台藩はなかなか会津藩を討とうとしません。
4月19日に旧幕府軍が宇都宮城を占拠すると、仙台藩は新政府軍に敵対することを決めます。そうして会津藩、仙台藩、越後中岡藩などが同盟を結ぶことになりました。
1868年4月20日から9月22日にかけて、会津戦争が勃発します。奥羽越藩同盟を結成した時点では会津は天皇に対して抵抗しないことを示して罪を許してもらえるよう歎願していました。
しかし新政府の鎮撫使であった世良修蔵が仙台藩士によって殺されると、時局は一気に戦争へと傾いていってしまいます。会津藩は新政府軍に数で劣り、敗北を重ねていきます。
同盟していた藩が新政府軍へと降伏していって戦争を続けられなくなったため、9月22日に会津も新政府軍に降伏します。
戊辰戦争は様々な悲劇を民にもたらしました。会津藩は女性部隊である娘子軍も戦争に駆り出しましたが、彼女達は敵の手に落ちて暴行されたという話も伝わっています。
また、田畑は軍に荒らされて収穫前の農作物が台無しにされたそうです。このような悲劇が次々に起き、やがて会津では長州の男とは結婚するなというタブーが子供達に伝えられていくことになります。
1986年になると長州藩の拠点だった萩市が会津藩の拠点だった会津若松市に戦争の和解と友好都市の申し入れをしますが、会津若松市はそれを拒絶します。
長州と会津の間に出来た溝は深く、タブーは戊辰戦争から150年経った現代まで残っているようです。
白虎隊の悲劇
白虎隊は会津藩が武家の男子を集めて組織した部隊で、なかには13歳の少年もいました。彼らは本来は城下町の防衛を担っていたのですが、会津の劣勢が続いたため前線へと駆り出されます。
白虎隊は奮戦しましたが徐々に戦死者が増えていきました。8月23日に負傷者を抱えて残った7人が飯盛山に落ち延びます。そして彼らはこれ以上は戦えないことを悟り、自刃してしまうのです。
この時7人のうち6名が死亡し、ただ一人飯沼貞吉だけが助かりました。飯沼はその後電気技士として生き、1931年に亡くなりました。
飯沼の遺骨の一部は飯盛山で亡くなった同士と同じ場所に埋葬されます。白虎隊の悲劇は飯沼が晩年に語り、現代まで伝わっています。
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